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青春スクロール(5)

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教育【青春スクロール】   朝日新聞 神奈川版より

県立茅ケ崎北陵(5)

写真・図版

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茅ケ崎で執筆する鳴神

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2作目を編集中だという三澤

■「遅咲き」も「早咲き」も、3年間が支え

 小説家の鳴神響一(56、1981年卒)は中央大学を卒業後の28年間、茅ケ崎市内の小学校事務職員を務め、52歳で作家デビューした遅咲きだ。

 鎌倉で育ち、中学時代はラジオの深夜番組にはまった。担任の薦めで茅ケ崎北陵高校に入学。鎌倉から通う知り合いは少なく心細かったが、夕方、下校を促す音楽に救われた。

 校内になぜかイギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」が流れた。選曲は放送委員会の先輩。「自由だ」。自分の居場所はここだと思った。

 放送委員会に入ると、顧問はノータッチ。昼の休み時間は毎日、DJ入りの音楽番組を作って流した。月曜の「ジャズ・フュージョン」を担当し、音楽へのこだわりと知識を生かせた。

 NHKのコンクールに出品するラジオドラマのシナリオも書いた。柳田国男の「遠野物語」を題材に、伝説と音楽を融合させた作品も手がけた。

 クラスから希望者が入る委員会組織だったが、中身は完全に部活。構想を練り仲間と議論を交わした。OB会も熱心で、毎年の寄付で相当な機材がそろっていた。

 自宅から電車を乗り継いで通った。低い山が迫る鎌倉と違い相模湾に開けた茅ケ崎の伸びやかな雰囲気が心地よかった。

 大学4年の就職活動でテレビ局を受けたが合格せず、翌年、県の小中学校などの事務職員の試験を受けて採用された。茅ケ崎市内の小学校で教員や児童の各種手続きなどをこなし、公務員として地道に過ごした。転機は、首に腫瘍(しゅよう)が見つかり、死を意識した40歳の時だ。

 「本気で何かしてきただろうか」「高校時代から物語を作りたかったのではないか」

 腫瘍は良性だった。復職後、小説を書き始めた。何度も新人賞に応募したが落選続きだった。51歳の時、仕事を辞める決意をした。退職金を取り崩してでも本気で小説家になろうと。するとその年、「私が愛したサムライの娘」で角川春樹小説賞を受賞。以来、ミステリーや歴史・時代小説を発表している。

 対照的に映画監督の三澤拓哉(31、2006年卒)は、27歳で映画監督デビューでした。

 高校ではサッカー部。部員は100人近く、新入部員はボール拾いやライン引きなどばかり。何かミスがあると連帯責任で105メートル連続走などの罰則があり、1年生の6月に早々に退部した。だがサッカーが好きで悶々(もんもん)としていたころ、仲のいい同級生が「戻ってくればいいじゃん」と声をかけてくれた。

 11月に復帰し、3年までサッカーを続けられたことは自分の支えになっていると思う。

 明治大学文学部に進み演劇を専攻した。とはいえ舞台や映画志望ではなく教員になるつもりだった。4年生の夏、東京・お茶の水で毎年あるジャズ祭の学生スタッフになり、ジャズ祭総合プロデューサーの歌手・作曲家で俳優の宇崎竜童に出会った。映画の話をし将来について相談にも乗ってくれた。「映画の世界でやってみたい」と思うようになり、卒業後、日本映画大学の1期生に。脚本も手がけた映画「3泊4日、5時の鐘」を在学中に茅ケ崎で撮影した。

 開放的な前作とは異質な、晩秋の大磯町を舞台にした2作目を制作中で、近く公開する。

(遠藤雄二)

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