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教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(3)

写真:拡大

写真:フリーで仕事を続ける徳田拡大フリーで仕事を続ける徳田

写真:マルチ集団で活躍した三澤拡大マルチ集団で活躍した三澤

■演奏に熱中「アメ民」とマルチ「日民会」

 NHKのど自慢の司会などを担当したアナウンサー徳田章(67、1970年卒)はNHKを退職し、現在はフリーでラジオやテレビ番組に出演している。茅ケ崎北陵高校の入学は開校4年目。まだ体育館はなく、入学式は校舎の屋上に椅子を並べて行われた。

 泊まりがけの新入生研修の夜、同級生が「ベンチャーズのレコードなら兄貴がたくさん持っている」と話しかけてきた。65年の来日をきっかけに、徳田もベンチャーズに夢中だった。

 早速、自宅を訪ねると、「これも聴いてみない」と同級生はアメリカのカントリー音楽のレコードをかけた。スコットランドやアイルランドからの移民の伝承音楽をルーツとする「ブルーグラス」だった。

 「エレキギターじゃなくても、こんなわくわくする音楽があるんだ」。そう感じた瞬間から、ブルーグラスとの付き合いが始まった。

 バンジョーを弾いていた友人に「バンドをやろうよ」と誘われ、仲間数人が集まった。学校に練習場所を確保するため、クラブ活動の申請をすることに。「アメリカの音楽、英語の歌詞だから」と英語の先生に協力を求め、許可が下りたのは2年生の春。コーラス部所属の「アメリカ民謡研究班」としてのスタートだった。

 通称「アメ民」は、音楽室の奥の3畳ほどの練習室を使えることになった。5人ほどがひしめき合って、ギターやバンジョーを弾き、歌った。

 発表の場は文化祭や卒業生を送る会。司会や曲の説明をする役割が回ってきた。ベース担当で、音合わせが必要なほかの楽器より曲の間は余裕があったからだ。人前でも落ち着いて話し、伝えることができた。

 ジャーナリストにあこがれ、大学ではマスコミ論を専攻した。アナウンサー志望の仲間の影響で、NHKのアナウンサー職を受験して合格した。

 「高校時代は意識していなかったが、振り返ると『アメ民』の司会が、アナウンサーになる原点だったかもしれません」

 「アメ民」が結成されて間もなく、校内に日本民謡研究会、通称「日民会」も誕生した。

 その中心が、徳田の1学年下で中学の社会科教師になった前寒川町教育長の三澤芳彦(66、71年卒)だ。1年生から友人とロックバンドを結成し、特に日本民謡に傾倒していたわけではなかった。会の名称は「アメ民」をもじった半ば冗談。音楽だけでなくマルチに文化活動をする集団だった。

 「ロックやフォークは体制に保障されてはいけない、という思いがあった。組織の中に埋没するのが嫌で、自由に楽しく学園生活を送りたいと思った」

 「アメ民」が正規のクラブ活動だったのに対し、「日民会」は15人ほどの任意のグループ。寸劇やコントをしたり、男子がいなかったコーラス部の舞台に助っ人で出演したり、野球部が初めて夏の高校野球県大会に出場すると聞き、有志で応援団を立ち上げたりもした。

 後に校長や教育長という「体制側」になったが、その立場からではなく是々非々で判断してきたと自負する。

 「高校時代から常識にとらわれることなく、何事も自分で考え、行動するということを大事にしてきたつもりです」

(遠藤雄二)

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(2)

写真・図版

写真・図版

家事や子育てを楽しむ「主夫」でもある佐川

■サッカーと勉強、硬派に自分鍛える

 作家の佐川光晴(54、1983年卒)は入学式の朝、張り出されたクラス名簿を目で追い、自分の名前を探した。最後の8組の中にようやく見つけたが、当時の茅ケ崎北陵高校に男子だけのクラスがあることをその時初めて知った。

 1~6組が男女一緒で、7、8組は男子だけ。そのころは男子が圧倒的に多く、7、8組は入試の成績上位の男子が集められた、といううわさもあった。

 1年生から「部活のサッカーと勉強だけの生活だった」。男子クラスは好都合で、居心地が良かった。茅ケ崎市内の団地から自転車で通い、部活の後は泥だらけの練習着のまま自宅に直行した。

 2年生のクラス替えで男女一緒のクラスになった。「成績は上位なのに、どうして」と硬派の少年はむしろ不満だった。あのうわさは、うわさに過ぎなかったようだ。

 高校生活は楽しかった。サッカー部では1年からレギュラー。中盤の要で泥臭く走り回った。あり余る体力で、校内の陸上競技大会の1500メートル走では陸上部員にも勝った。

 気の合う友人と自転車で浜辺に行き、夢や悩みを語り合った。女子の人気もあったらしい。2年生の時、クラスの女子の人気投票で1位だったといわれた。卒業式の後、下級生の女子に「学生服のボタンをください」と求められたが、「あげられない」と断った。数日後の国立大の入試は学生服で受験し、大学でも学生服を着続けるつもりだったからだ。私服はほとんど持っていなかった。

 いろんなタイプの生徒がいた。リーゼントのとっぽい男子、芸能界をめざす女子。サッカー部には髪形を気にして試合以外はヘディングをしない先輩もいた。進学校ではあったが、歴史がまだ浅い高校はおおらかな雰囲気だったという。

 1年生の終わりごろから北海道大学をめざすと決めた。企業の労組役員だった父親が、労使紛争のさなかに暴行を受けたのが原因でうつ病になり、収入が大幅に減った。3人の妹と弟が1人いて、両親と合わせて7人家族の家計は苦しく、私立大学は選択肢になかった。

 「暖かく居心地がいい茅ケ崎を離れて、遠くに行きたいという気持ちが強かった。そして(伝統がありバンカラで有名な)北大の恵迪(けいてき)寮生になりたかった」。猛勉強をして現役で北大に合格した。

 大学卒業後すぐに結婚。就職した出版社は、幹部と衝突して1年で退社。バブル景気のさなかで、いわゆる「いい再就職先」はあったが「体を使って働きたい」と牛や豚を解体する仕事を自ら選び、10年半続けた。

 「自分を鍛えたい、自分で人生を切り開こうという気持ちは、高校時代から大人になってもずっとあった」

 小説を書き始めたのは、屠畜(とちく)場の仕事で一人前と認められるようになってからだった。2000年、自伝的小説「生活の設計」で新潮新人賞を受賞して作家デビュー。「ぼくたちは大人になる」(09年)では、茅ケ崎の母校を舞台にひたむきな男子高校生の過ちと成長を描いた。

(遠藤雄二)

朝日新聞神奈川版より  

写真の掲載はJAXAの許可が必要となりますので、フェイスブックの新聞のコピーをご覧ください。

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(1)

 

■淡いあこがれ、確かな夢に

 少年が抱いていた宇宙への淡いあこがれは、高校1年の春、「宇宙飛行士になる」という明確な夢に変わった。

 宇宙飛行士の野口聡一(53、1984年卒)は、県立茅ケ崎北陵高校(茅ケ崎市下寺尾)に入学して間もない81年4月12日、アメリカ航空宇宙局(NASA)の有人宇宙船スペースシャトル1号機の打ち上げ成功のニュースを、特別な思いで見つめた。

 「現実の職業として考えていいんじゃないか」

 子どものころ、テレビで「サンダーバード」や「宇宙戦艦ヤマト」を欠かさず見て、ずっと宇宙にあこがれてきた。だが、それはまだ「お話の世界」だった。ところが、宇宙飛行士がシャトルに搭乗して宇宙を旅し、地球に帰還するということが、リアルタイムで起きている。それは「僕の一生が変わったかもしれない」と思う出来事だった。

 高校3年になり、進路相談で担任に切り出した。

 「宇宙飛行士になりたいんです」

 毛利衛が日本人として初めてスペースシャトルに乗り込んだのが92年。その10年近くも前のことだから、日本人が宇宙飛行士になることは、一般には考えにくい時代だった。それでも担任の先生は笑ったり、驚いたりせず、「それじゃ、どこの工学部がいいかな」と真顔で応じてくれた。当時は航空学科や宇宙工学科は少なく、東大工学部航空学科を目指すことにした。懸命に勉強して合格し、夢の実現に向けて歩み始めた。

 「茅ケ崎というと海のイメージが強いが、高校は丘の上にあって、のんびりしていた。目の前のことばかりにとらわれず、広い目で将来のことを考えられた。いい時間だった」と3年間を振り返る。

 市内の自宅から学校までの約8キロを毎日、自転車で通い、大山や富士山を見ながら最後の坂道を上った。真冬の1週間、普段より早く登校し、生徒全員が学校の周囲約4キロを走る恒例行事があった。さぼる生徒もいたが、陸上部員だったのでそれは許されず、皆勤した。最終日に先生たちが作ってくれたお汁粉を食べ、幸せな気持ちになったことを今も覚えている。

 2005年、09年に続き、今年の終わりごろから3度目の国際宇宙ステーション滞在が予定されている。半年間の長期になる予定だ。54歳での出発は、日本人宇宙飛行士としては最年長となる見込みだ。

 「宇宙に行くための体力や体づくりはしている。経験を生かして、野球のイチローやサッカーのカズ(三浦知良)、スキージャンプの葛西(紀明)さんらレジェンドに負けないように頑張ります」

 現在は米国テキサス州ヒューストンを拠点に、訓練の目的や機器に応じて、ドイツやロシアなどを飛び回っているという。

 今回の取材は、ヒューストンと宇宙航空研究開発機構(JAXA)の東京都内の事務所をテレビ回線で結んで応じてくれた。最後にこんなメッセージを託した。

 「ふるさと茅ケ崎、神奈川のみなさんには毎回、温かい応援をいただいています。次回も宇宙から一緒に盛り上がり、楽しんでいただけるような機会をつくりたい」

 (敬称略。遠藤雄二が担当します)

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 1964年開校の全日制普通科高校。高度経済成長、人口増、高校進学率の上昇という環境の中、地域住民の要望を受けて設立された。旧校舎があった敷地から重要な遺跡群が発見されたことから、2006年4月から近くのプレハブの仮設校舎を使い続けている。県が移転候補地の地権者と交渉中だ。