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教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(7)

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写真:指導に情熱を注ぐ藤田拡大指導に情熱を注ぐ藤田

写真:茅ケ崎市職員になった富田拡大茅ケ崎市職員になった富田

■厳しい練習・失意の大会、後に開花

 女子フットサルの元日本代表主将の藤田安澄(あずみ)(40、1997年卒)は高校時代、バスケットボール部の主力だった。地区大会で上位に入って県大会に出るという目標があり、練習は厳しかった。

 ただ部活の指導方法には疑問を感じた。チームを鼓舞するためか、頻繁に叱られたり、きつい反復練習をやらされたりした。生徒が目的意識を持ち、自分たちのアイデアでやれたら、もっと良いプレーや試合ができたと思う。

 当時のチームメートはいまも仲がよく、たまに茅ケ崎市内の体育館に集まり、ゲームを楽しんでいる。

 筑波大学に進み、バスケを続けてレギュラーを目指した。思うような結果が出ず女子サッカー部に転向。主力としてインカレ(全国大会)に出場した。フットサルに出会ったのは通信制高校で保健体育を教えていた時。1チーム5人で、全員で攻めて守る競技はバスケと似たところがあり、自分に合っていた。都内のクラブチームで活躍し、2007~10年に日本代表に選ばれ3大会で主将を務めた。

 引退後はブラインドサッカー女子日本代表のコーチを務めるほか、湘南地域で子どもから大人まで指導するフットサルクラブの代表となった。「何がいけないか理由を明確に伝え、納得して練習やプレーをしてもらうように心がけています」

 1993年の箱根駅伝で優勝した早稲田大学のアンカー、富田雄也(かつや)(48、1989年卒)は高校時代は陸上部員。3年の時、県大会の3千メートル障害で2位になり、インターハイ出場を目指して関東大会に臨んだ。

 しかし大会直前、体育の授業中に足首をねんざし、治りきらずに惨敗。失意の中、高校での競技を終えた。国立大学志望だったが、共通1次試験の結果が思わしくなく浪人を覚悟した。

 担任の言葉が、人生を変えた。「どこでもいいから、一つ合格してから浪人しろ」

 少しでも自信を持って翌年、第1志望校に挑め、という担任の意図だった。富田は「ダメもと」で受験した早稲田大学に合格。本格的な競技は高校までと決めていたが、父親に「陸上部(競走部)に入らないと学費は出さん」と言われた。「それなら、もう少しやってみるか」といった程度の気持ちで競走部に入部した。

 厳しい練習を続け、1年生から良い成績を出せた。正選手のけがや体調不良もあり、箱根駅伝のアンカーに抜擢(ばってき)された。チームは9位。翌年もアンカーを務めた。

 安定した走りが特徴で、4年時も最終10区を任された。スーパールーキーといわれた渡辺康幸らが入ったこともあり、チームは久々に箱根駅伝総合優勝を果たした。ゴール数キロ前に優勝を確信すると、摂生を怠ってメンバーから外された前年の悔しさなどを思い起こし、感情がこみ上げた。テープを切った瞬間は、興奮で記憶にないという。

 早稲田のアンカーは卒業後、茅ケ崎市役所に入り、現在は市民自治推進課長をしている。

     ◇

 県立茅ケ崎北陵高校は今回で終了します。(遠藤雄二)

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(6)

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写真:交通事故から復帰したおおい拡大交通事故から復帰したおおい

写真:幼い頃から空想が好きだった加藤拡大幼い頃から空想が好きだった加藤

■しっかり者の親友・暖かい日だまり

 絵本作家のおおいじゅんこ(50、1987年卒)=本名・大井淳子=は、幼い頃から絵や造形が好きで、茅ケ崎北陵高校入学時から東京芸術大学への進学を目指した。

 高校では美術部で活動した。芸大の入試ではデッサンなどの実技が重視されるため、鎌倉市内の美術系大学受験の専門予備校に通った。3年生になると予備校で学ぶ時間が増え、担任に伝えて単位取得に支障のない範囲で休んだり早退したりした。

 欠席した授業はもちろん、校内の出来事などが気になった。その不安を解消してくれたのが3年間同じクラスの親友だった。ノートを見せてもらったり、クラスの様子を聞いたり。

 「教室に入ると、彼女に会えるという安心感があったから、あんなにのんきに休めたのかもしれません。しっかり者の親友とずっと同じクラスだったのは幸運でした」

 東京芸大大学院を修了後、文房具メーカーのデザイナーに。結婚、出産を経て退社し、絵本を描き始めた。「ちびころおにぎり」「チャーシューママ」など、食べ物を擬人化した作品が多い。

 5年前、自転車に乗っていて車にはねられ、頭を強く打って、くも膜下出血が起きた。後遺症で今も臭いがほとんど分からない。外に出るのが怖くなり、活動再開までに2年以上かかった。昨年、4年ぶりに「プチトマトのぷーちゃん どーこかな?」を出版した。子どもの視線でイメージをいっぱいに膨らませるようにしている。

 「ふと、これが最後の作品になるかもしれないと思うことがある。1作1作を大事に描いていきたい」

 同じく絵本作家の加藤晶子(あきこ)(40、97年卒)は「暖かい日だまりの中にいるような時間だった」と高校時代を表現する。

 緩やかな丘に位置する高校の周囲は当時、畑や牧場だった。辺りを眺めながらゆっくりこぐ自転車の脇を、次々と生徒たちが追い抜いていく。冬の朝、美しい富士山を眺めていたら、遅刻したこともあった。

 小学生の頃から、お話をつくったり、絵を描いたりするのが好きだった。小さくなって植物に乗って空を飛び、街中に種を巻くような話だった。勉強やバドミントンの部活で忙しかった高校時代も、「どうしたら絵本作家になれるのか」と思い続けた。親しい友人に夢を話すと、「晶らしいね」と応援してくれた。

 「高校時代は、ゆっくりと絵本への思いを蓄積することができた」と振り返る。

 創作のためには絵だけでは足りないとの思いから、東洋英和女学院大学に進学し、死生学などを学んだ。4年生の途中から、イラストレーションの専門学校にも通い、絵本づくりへの道を踏み出した。卒業後は企業で働きながら絵本を描き、週末は出版社の編集者らが批評してくれる絵本のワークショップに参加した。2013年、「てがみぼうやのゆくところ」で講談社絵本新人賞を受賞してデビューした。

 作中で、投函(とうかん)された「てがみぼうや」は真っ暗なポストの中で、「はがきさん」に声をかけられ励まされる。母親になった今も「干した洗濯物たちが話し始めるかもしれない」と、しばらく眺める時があるという。

(遠藤雄二)

教育【青春スクロール】   朝日新聞 神奈川版より

県立茅ケ崎北陵(5)

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茅ケ崎で執筆する鳴神

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2作目を編集中だという三澤

■「遅咲き」も「早咲き」も、3年間が支え

 小説家の鳴神響一(56、1981年卒)は中央大学を卒業後の28年間、茅ケ崎市内の小学校事務職員を務め、52歳で作家デビューした遅咲きだ。

 鎌倉で育ち、中学時代はラジオの深夜番組にはまった。担任の薦めで茅ケ崎北陵高校に入学。鎌倉から通う知り合いは少なく心細かったが、夕方、下校を促す音楽に救われた。

 校内になぜかイギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」が流れた。選曲は放送委員会の先輩。「自由だ」。自分の居場所はここだと思った。

 放送委員会に入ると、顧問はノータッチ。昼の休み時間は毎日、DJ入りの音楽番組を作って流した。月曜の「ジャズ・フュージョン」を担当し、音楽へのこだわりと知識を生かせた。

 NHKのコンクールに出品するラジオドラマのシナリオも書いた。柳田国男の「遠野物語」を題材に、伝説と音楽を融合させた作品も手がけた。

 クラスから希望者が入る委員会組織だったが、中身は完全に部活。構想を練り仲間と議論を交わした。OB会も熱心で、毎年の寄付で相当な機材がそろっていた。

 自宅から電車を乗り継いで通った。低い山が迫る鎌倉と違い相模湾に開けた茅ケ崎の伸びやかな雰囲気が心地よかった。

 大学4年の就職活動でテレビ局を受けたが合格せず、翌年、県の小中学校などの事務職員の試験を受けて採用された。茅ケ崎市内の小学校で教員や児童の各種手続きなどをこなし、公務員として地道に過ごした。転機は、首に腫瘍(しゅよう)が見つかり、死を意識した40歳の時だ。

 「本気で何かしてきただろうか」「高校時代から物語を作りたかったのではないか」

 腫瘍は良性だった。復職後、小説を書き始めた。何度も新人賞に応募したが落選続きだった。51歳の時、仕事を辞める決意をした。退職金を取り崩してでも本気で小説家になろうと。するとその年、「私が愛したサムライの娘」で角川春樹小説賞を受賞。以来、ミステリーや歴史・時代小説を発表している。

 対照的に映画監督の三澤拓哉(31、2006年卒)は、27歳で映画監督デビューでした。

 高校ではサッカー部。部員は100人近く、新入部員はボール拾いやライン引きなどばかり。何かミスがあると連帯責任で105メートル連続走などの罰則があり、1年生の6月に早々に退部した。だがサッカーが好きで悶々(もんもん)としていたころ、仲のいい同級生が「戻ってくればいいじゃん」と声をかけてくれた。

 11月に復帰し、3年までサッカーを続けられたことは自分の支えになっていると思う。

 明治大学文学部に進み演劇を専攻した。とはいえ舞台や映画志望ではなく教員になるつもりだった。4年生の夏、東京・お茶の水で毎年あるジャズ祭の学生スタッフになり、ジャズ祭総合プロデューサーの歌手・作曲家で俳優の宇崎竜童に出会った。映画の話をし将来について相談にも乗ってくれた。「映画の世界でやってみたい」と思うようになり、卒業後、日本映画大学の1期生に。脚本も手がけた映画「3泊4日、5時の鐘」を在学中に茅ケ崎で撮影した。

 開放的な前作とは異質な、晩秋の大磯町を舞台にした2作目を制作中で、近く公開する。

(遠藤雄二)

教育【青春スクロール】            朝日新聞神奈川版より

県立茅ケ崎北陵(4)

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演奏家・指導者として活躍する池田

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亡き兄の短歌を書にする中澤

■吹奏楽部の名物顧問、教え子たちは

 トランペット奏者の池田英三子(49、1988年卒)は中学生の時、茅ケ崎北陵高吹奏楽部の定期演奏会を聴きに行って、この吹奏楽部に入ろうと決めた。「サウンドが素敵で、指揮をした先生のもとで演奏したい」と思った。

 当時の顧問は竹高敬(故人)。サングラスをかけ、下駄(げた)を履き、教員らしくない風貌(ふうぼう)だった。音楽と酒をこよなく愛する名物教師だった。高校の吹奏楽部や大学のサークルでファゴットなどを吹いていたという。

 池田は小学4年から金管バンドでトランペットを始めた。中学も吹奏楽部。地元の進学校で、魅力的な吹奏楽部がある北陵を当然のように選んだ。とはいえ吹奏楽部は、コンクールで全国大会などに進む「強豪校」ではなかった。

 「いい音楽をしよう。いいものをつくろう」。それが竹高のモットーだった。高校の周囲は畑が広がっていた。暖かい日は教室の窓を開け、畑に向かって伸び伸びと吹いた。

 1年の終わりの定期演奏会で、ソロを含む重要パートを任され、演奏後に竹高に褒められた。そのころから「楽器で生きていこう」と、奏者になる決意を固めていった。東京芸大に進み大学院修了後、オーケストラやミュージカル、ソロなどの演奏活動のほか、大学や音楽学校で後進の指導をしている。

 一つ先輩には、国際的なホルン奏者でフランスを拠点に活躍する根本雄伯(たけのり)(87年卒)がいた。竹高から演奏する喜びを伝えられた教え子は、プロでもアマでも楽器の演奏を続けている人が多いと池田は言う。

 横浜市の書家中澤光(りこう)(47、90年卒)=本名・伊川和美=も竹高の音楽にひかれ、部活に打ち込んだ。担当はトロンボーン。1年の夏の県大会はいまも忘れられない。

 演奏はベストといえる出来栄えだった。指導する竹高のタクトに呼応し、曲の最後を気持ちよく伸ばした。大きな拍手がわき、関東大会出場もみえたかと思われた。ところが、規定の12分をわずかにオーバーし、失格となった。

 竹高は「やっちゃった。ごめん」とわびたが、顔は笑っていた。部員たちも満足感でいっぱいだった。「次は(地元での)ジャズコンサートだ」と気持ちを切り替えた。「賞を取るためではなく、素敵ないい演奏をしよう」というのが、顧問と部員たちの共通した思いだったと中澤も振り返る。

 「顧問を信頼していました。先輩と後輩の仲もよくて、部活動にどっぷりでした」

 千葉大園芸学部に進学。就職先を退職後、勤めた花屋で「メッセージカードを上手に書けるようになりたい」と思ったのがきっかけで、横浜の書家に師事し、30代で書家になった。

 1歳上の兄、故中澤系(89年卒)=本名・中澤圭佐(けいすけ)=も同窓で吹奏楽部員だった。20代後半から短歌に没頭し、未来短歌会の97年度「未来賞」を受賞。頭角を現したが、進行性の難病副腎白質ジストロフィー(ALD)で38歳の若さで亡くなった。

 分野は違っても曲折をへて芸術の道を歩んだきょうだい。妹は兄の歌が生き続けてほしいという思いを込めて、兄が紡いだ歌集「uta0001.txt」(皓星社)から言葉をしたため続ける。

(遠藤雄二)

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(3)

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写真:フリーで仕事を続ける徳田拡大フリーで仕事を続ける徳田

写真:マルチ集団で活躍した三澤拡大マルチ集団で活躍した三澤

■演奏に熱中「アメ民」とマルチ「日民会」

 NHKのど自慢の司会などを担当したアナウンサー徳田章(67、1970年卒)はNHKを退職し、現在はフリーでラジオやテレビ番組に出演している。茅ケ崎北陵高校の入学は開校4年目。まだ体育館はなく、入学式は校舎の屋上に椅子を並べて行われた。

 泊まりがけの新入生研修の夜、同級生が「ベンチャーズのレコードなら兄貴がたくさん持っている」と話しかけてきた。65年の来日をきっかけに、徳田もベンチャーズに夢中だった。

 早速、自宅を訪ねると、「これも聴いてみない」と同級生はアメリカのカントリー音楽のレコードをかけた。スコットランドやアイルランドからの移民の伝承音楽をルーツとする「ブルーグラス」だった。

 「エレキギターじゃなくても、こんなわくわくする音楽があるんだ」。そう感じた瞬間から、ブルーグラスとの付き合いが始まった。

 バンジョーを弾いていた友人に「バンドをやろうよ」と誘われ、仲間数人が集まった。学校に練習場所を確保するため、クラブ活動の申請をすることに。「アメリカの音楽、英語の歌詞だから」と英語の先生に協力を求め、許可が下りたのは2年生の春。コーラス部所属の「アメリカ民謡研究班」としてのスタートだった。

 通称「アメ民」は、音楽室の奥の3畳ほどの練習室を使えることになった。5人ほどがひしめき合って、ギターやバンジョーを弾き、歌った。

 発表の場は文化祭や卒業生を送る会。司会や曲の説明をする役割が回ってきた。ベース担当で、音合わせが必要なほかの楽器より曲の間は余裕があったからだ。人前でも落ち着いて話し、伝えることができた。

 ジャーナリストにあこがれ、大学ではマスコミ論を専攻した。アナウンサー志望の仲間の影響で、NHKのアナウンサー職を受験して合格した。

 「高校時代は意識していなかったが、振り返ると『アメ民』の司会が、アナウンサーになる原点だったかもしれません」

 「アメ民」が結成されて間もなく、校内に日本民謡研究会、通称「日民会」も誕生した。

 その中心が、徳田の1学年下で中学の社会科教師になった前寒川町教育長の三澤芳彦(66、71年卒)だ。1年生から友人とロックバンドを結成し、特に日本民謡に傾倒していたわけではなかった。会の名称は「アメ民」をもじった半ば冗談。音楽だけでなくマルチに文化活動をする集団だった。

 「ロックやフォークは体制に保障されてはいけない、という思いがあった。組織の中に埋没するのが嫌で、自由に楽しく学園生活を送りたいと思った」

 「アメ民」が正規のクラブ活動だったのに対し、「日民会」は15人ほどの任意のグループ。寸劇やコントをしたり、男子がいなかったコーラス部の舞台に助っ人で出演したり、野球部が初めて夏の高校野球県大会に出場すると聞き、有志で応援団を立ち上げたりもした。

 後に校長や教育長という「体制側」になったが、その立場からではなく是々非々で判断してきたと自負する。

 「高校時代から常識にとらわれることなく、何事も自分で考え、行動するということを大事にしてきたつもりです」

(遠藤雄二)

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(2)

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家事や子育てを楽しむ「主夫」でもある佐川

■サッカーと勉強、硬派に自分鍛える

 作家の佐川光晴(54、1983年卒)は入学式の朝、張り出されたクラス名簿を目で追い、自分の名前を探した。最後の8組の中にようやく見つけたが、当時の茅ケ崎北陵高校に男子だけのクラスがあることをその時初めて知った。

 1~6組が男女一緒で、7、8組は男子だけ。そのころは男子が圧倒的に多く、7、8組は入試の成績上位の男子が集められた、といううわさもあった。

 1年生から「部活のサッカーと勉強だけの生活だった」。男子クラスは好都合で、居心地が良かった。茅ケ崎市内の団地から自転車で通い、部活の後は泥だらけの練習着のまま自宅に直行した。

 2年生のクラス替えで男女一緒のクラスになった。「成績は上位なのに、どうして」と硬派の少年はむしろ不満だった。あのうわさは、うわさに過ぎなかったようだ。

 高校生活は楽しかった。サッカー部では1年からレギュラー。中盤の要で泥臭く走り回った。あり余る体力で、校内の陸上競技大会の1500メートル走では陸上部員にも勝った。

 気の合う友人と自転車で浜辺に行き、夢や悩みを語り合った。女子の人気もあったらしい。2年生の時、クラスの女子の人気投票で1位だったといわれた。卒業式の後、下級生の女子に「学生服のボタンをください」と求められたが、「あげられない」と断った。数日後の国立大の入試は学生服で受験し、大学でも学生服を着続けるつもりだったからだ。私服はほとんど持っていなかった。

 いろんなタイプの生徒がいた。リーゼントのとっぽい男子、芸能界をめざす女子。サッカー部には髪形を気にして試合以外はヘディングをしない先輩もいた。進学校ではあったが、歴史がまだ浅い高校はおおらかな雰囲気だったという。

 1年生の終わりごろから北海道大学をめざすと決めた。企業の労組役員だった父親が、労使紛争のさなかに暴行を受けたのが原因でうつ病になり、収入が大幅に減った。3人の妹と弟が1人いて、両親と合わせて7人家族の家計は苦しく、私立大学は選択肢になかった。

 「暖かく居心地がいい茅ケ崎を離れて、遠くに行きたいという気持ちが強かった。そして(伝統がありバンカラで有名な)北大の恵迪(けいてき)寮生になりたかった」。猛勉強をして現役で北大に合格した。

 大学卒業後すぐに結婚。就職した出版社は、幹部と衝突して1年で退社。バブル景気のさなかで、いわゆる「いい再就職先」はあったが「体を使って働きたい」と牛や豚を解体する仕事を自ら選び、10年半続けた。

 「自分を鍛えたい、自分で人生を切り開こうという気持ちは、高校時代から大人になってもずっとあった」

 小説を書き始めたのは、屠畜(とちく)場の仕事で一人前と認められるようになってからだった。2000年、自伝的小説「生活の設計」で新潮新人賞を受賞して作家デビュー。「ぼくたちは大人になる」(09年)では、茅ケ崎の母校を舞台にひたむきな男子高校生の過ちと成長を描いた。

(遠藤雄二)

朝日新聞神奈川版より  

写真の掲載はJAXAの許可が必要となりますので、フェイスブックの新聞のコピーをご覧ください。

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(1)

 

■淡いあこがれ、確かな夢に

 少年が抱いていた宇宙への淡いあこがれは、高校1年の春、「宇宙飛行士になる」という明確な夢に変わった。

 宇宙飛行士の野口聡一(53、1984年卒)は、県立茅ケ崎北陵高校(茅ケ崎市下寺尾)に入学して間もない81年4月12日、アメリカ航空宇宙局(NASA)の有人宇宙船スペースシャトル1号機の打ち上げ成功のニュースを、特別な思いで見つめた。

 「現実の職業として考えていいんじゃないか」

 子どものころ、テレビで「サンダーバード」や「宇宙戦艦ヤマト」を欠かさず見て、ずっと宇宙にあこがれてきた。だが、それはまだ「お話の世界」だった。ところが、宇宙飛行士がシャトルに搭乗して宇宙を旅し、地球に帰還するということが、リアルタイムで起きている。それは「僕の一生が変わったかもしれない」と思う出来事だった。

 高校3年になり、進路相談で担任に切り出した。

 「宇宙飛行士になりたいんです」

 毛利衛が日本人として初めてスペースシャトルに乗り込んだのが92年。その10年近くも前のことだから、日本人が宇宙飛行士になることは、一般には考えにくい時代だった。それでも担任の先生は笑ったり、驚いたりせず、「それじゃ、どこの工学部がいいかな」と真顔で応じてくれた。当時は航空学科や宇宙工学科は少なく、東大工学部航空学科を目指すことにした。懸命に勉強して合格し、夢の実現に向けて歩み始めた。

 「茅ケ崎というと海のイメージが強いが、高校は丘の上にあって、のんびりしていた。目の前のことばかりにとらわれず、広い目で将来のことを考えられた。いい時間だった」と3年間を振り返る。

 市内の自宅から学校までの約8キロを毎日、自転車で通い、大山や富士山を見ながら最後の坂道を上った。真冬の1週間、普段より早く登校し、生徒全員が学校の周囲約4キロを走る恒例行事があった。さぼる生徒もいたが、陸上部員だったのでそれは許されず、皆勤した。最終日に先生たちが作ってくれたお汁粉を食べ、幸せな気持ちになったことを今も覚えている。

 2005年、09年に続き、今年の終わりごろから3度目の国際宇宙ステーション滞在が予定されている。半年間の長期になる予定だ。54歳での出発は、日本人宇宙飛行士としては最年長となる見込みだ。

 「宇宙に行くための体力や体づくりはしている。経験を生かして、野球のイチローやサッカーのカズ(三浦知良)、スキージャンプの葛西(紀明)さんらレジェンドに負けないように頑張ります」

 現在は米国テキサス州ヒューストンを拠点に、訓練の目的や機器に応じて、ドイツやロシアなどを飛び回っているという。

 今回の取材は、ヒューストンと宇宙航空研究開発機構(JAXA)の東京都内の事務所をテレビ回線で結んで応じてくれた。最後にこんなメッセージを託した。

 「ふるさと茅ケ崎、神奈川のみなさんには毎回、温かい応援をいただいています。次回も宇宙から一緒に盛り上がり、楽しんでいただけるような機会をつくりたい」

 (敬称略。遠藤雄二が担当します)

     *

 1964年開校の全日制普通科高校。高度経済成長、人口増、高校進学率の上昇という環境の中、地域住民の要望を受けて設立された。旧校舎があった敷地から重要な遺跡群が発見されたことから、2006年4月から近くのプレハブの仮設校舎を使い続けている。県が移転候補地の地権者と交渉中だ。