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2019年5月アーカイブ

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(7)

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写真:指導に情熱を注ぐ藤田拡大指導に情熱を注ぐ藤田

写真:茅ケ崎市職員になった富田拡大茅ケ崎市職員になった富田

■厳しい練習・失意の大会、後に開花

 女子フットサルの元日本代表主将の藤田安澄(あずみ)(40、1997年卒)は高校時代、バスケットボール部の主力だった。地区大会で上位に入って県大会に出るという目標があり、練習は厳しかった。

 ただ部活の指導方法には疑問を感じた。チームを鼓舞するためか、頻繁に叱られたり、きつい反復練習をやらされたりした。生徒が目的意識を持ち、自分たちのアイデアでやれたら、もっと良いプレーや試合ができたと思う。

 当時のチームメートはいまも仲がよく、たまに茅ケ崎市内の体育館に集まり、ゲームを楽しんでいる。

 筑波大学に進み、バスケを続けてレギュラーを目指した。思うような結果が出ず女子サッカー部に転向。主力としてインカレ(全国大会)に出場した。フットサルに出会ったのは通信制高校で保健体育を教えていた時。1チーム5人で、全員で攻めて守る競技はバスケと似たところがあり、自分に合っていた。都内のクラブチームで活躍し、2007~10年に日本代表に選ばれ3大会で主将を務めた。

 引退後はブラインドサッカー女子日本代表のコーチを務めるほか、湘南地域で子どもから大人まで指導するフットサルクラブの代表となった。「何がいけないか理由を明確に伝え、納得して練習やプレーをしてもらうように心がけています」

 1993年の箱根駅伝で優勝した早稲田大学のアンカー、富田雄也(かつや)(48、1989年卒)は高校時代は陸上部員。3年の時、県大会の3千メートル障害で2位になり、インターハイ出場を目指して関東大会に臨んだ。

 しかし大会直前、体育の授業中に足首をねんざし、治りきらずに惨敗。失意の中、高校での競技を終えた。国立大学志望だったが、共通1次試験の結果が思わしくなく浪人を覚悟した。

 担任の言葉が、人生を変えた。「どこでもいいから、一つ合格してから浪人しろ」

 少しでも自信を持って翌年、第1志望校に挑め、という担任の意図だった。富田は「ダメもと」で受験した早稲田大学に合格。本格的な競技は高校までと決めていたが、父親に「陸上部(競走部)に入らないと学費は出さん」と言われた。「それなら、もう少しやってみるか」といった程度の気持ちで競走部に入部した。

 厳しい練習を続け、1年生から良い成績を出せた。正選手のけがや体調不良もあり、箱根駅伝のアンカーに抜擢(ばってき)された。チームは9位。翌年もアンカーを務めた。

 安定した走りが特徴で、4年時も最終10区を任された。スーパールーキーといわれた渡辺康幸らが入ったこともあり、チームは久々に箱根駅伝総合優勝を果たした。ゴール数キロ前に優勝を確信すると、摂生を怠ってメンバーから外された前年の悔しさなどを思い起こし、感情がこみ上げた。テープを切った瞬間は、興奮で記憶にないという。

 早稲田のアンカーは卒業後、茅ケ崎市役所に入り、現在は市民自治推進課長をしている。

     ◇

 県立茅ケ崎北陵高校は今回で終了します。(遠藤雄二)

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(6)

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写真:交通事故から復帰したおおい拡大交通事故から復帰したおおい

写真:幼い頃から空想が好きだった加藤拡大幼い頃から空想が好きだった加藤

■しっかり者の親友・暖かい日だまり

 絵本作家のおおいじゅんこ(50、1987年卒)=本名・大井淳子=は、幼い頃から絵や造形が好きで、茅ケ崎北陵高校入学時から東京芸術大学への進学を目指した。

 高校では美術部で活動した。芸大の入試ではデッサンなどの実技が重視されるため、鎌倉市内の美術系大学受験の専門予備校に通った。3年生になると予備校で学ぶ時間が増え、担任に伝えて単位取得に支障のない範囲で休んだり早退したりした。

 欠席した授業はもちろん、校内の出来事などが気になった。その不安を解消してくれたのが3年間同じクラスの親友だった。ノートを見せてもらったり、クラスの様子を聞いたり。

 「教室に入ると、彼女に会えるという安心感があったから、あんなにのんきに休めたのかもしれません。しっかり者の親友とずっと同じクラスだったのは幸運でした」

 東京芸大大学院を修了後、文房具メーカーのデザイナーに。結婚、出産を経て退社し、絵本を描き始めた。「ちびころおにぎり」「チャーシューママ」など、食べ物を擬人化した作品が多い。

 5年前、自転車に乗っていて車にはねられ、頭を強く打って、くも膜下出血が起きた。後遺症で今も臭いがほとんど分からない。外に出るのが怖くなり、活動再開までに2年以上かかった。昨年、4年ぶりに「プチトマトのぷーちゃん どーこかな?」を出版した。子どもの視線でイメージをいっぱいに膨らませるようにしている。

 「ふと、これが最後の作品になるかもしれないと思うことがある。1作1作を大事に描いていきたい」

 同じく絵本作家の加藤晶子(あきこ)(40、97年卒)は「暖かい日だまりの中にいるような時間だった」と高校時代を表現する。

 緩やかな丘に位置する高校の周囲は当時、畑や牧場だった。辺りを眺めながらゆっくりこぐ自転車の脇を、次々と生徒たちが追い抜いていく。冬の朝、美しい富士山を眺めていたら、遅刻したこともあった。

 小学生の頃から、お話をつくったり、絵を描いたりするのが好きだった。小さくなって植物に乗って空を飛び、街中に種を巻くような話だった。勉強やバドミントンの部活で忙しかった高校時代も、「どうしたら絵本作家になれるのか」と思い続けた。親しい友人に夢を話すと、「晶らしいね」と応援してくれた。

 「高校時代は、ゆっくりと絵本への思いを蓄積することができた」と振り返る。

 創作のためには絵だけでは足りないとの思いから、東洋英和女学院大学に進学し、死生学などを学んだ。4年生の途中から、イラストレーションの専門学校にも通い、絵本づくりへの道を踏み出した。卒業後は企業で働きながら絵本を描き、週末は出版社の編集者らが批評してくれる絵本のワークショップに参加した。2013年、「てがみぼうやのゆくところ」で講談社絵本新人賞を受賞してデビューした。

 作中で、投函(とうかん)された「てがみぼうや」は真っ暗なポストの中で、「はがきさん」に声をかけられ励まされる。母親になった今も「干した洗濯物たちが話し始めるかもしれない」と、しばらく眺める時があるという。

(遠藤雄二)

5月11日(土)に行われた、代表委員会の報告を致します。
『代表委員会の議事録』体育館.png  令和元年5月11日(土)午後1時、代表委員会開会に先立ち、会長からの挨拶と教頭からの挨拶があり、その後、定款の規約に従い、会が開会を宣言した。 

平成30年度活動報告として、卒業式、入学式、体育祭、文化祭※1と 決算報告、監査報告があり、質疑応答の後、全会一致で承認された。続いて2019年度活動予定(卒業式、入学式、体育祭、文化祭)と予算案(一部修正)が提出され、質疑応答の後、全会一致で承認された。

 2019年度活動予定では、「今年末に予定されている野口さんの再度の宇宙へ」についての茅ヶ崎市などの様子を新倉副会長から報告を受けた。野口さんへの応援も含め、同窓会定款にある5年毎の『同窓会総会』の開催※2について、協議が行われ、11月初旬に茅ヶ崎駅近辺の会場を借りて開催する方向に決まった。その際、同窓生(卒業生)への案内状は、同窓生名簿の改定(新規5年分を含む)をするこ

ととし、名簿業者の名簿確認事項案内に同封して発送する方向で考えることになった。

 途中退席の委員がいたため、順を変えて出席代表委員全員の近況報告および役員選出(改選なし)が行われた。現在お住まいの静岡県からうなぎパイのお土産をもって来てくださった委員さん、遠いところありがたく思いました。また、今年は将来の北陵生にと期待する可愛いお子さん連れの委員さんも参加されました、2時間おとなしくエライなぁと思ったしだいです。

 最後に、会長から『校舎建て替えの現状報告』を行った。(1)高校は

県教委の担当者と逐次連絡を取りあっているが、具体的進展はないとのこと。(2)昨年提出された請願陳情について、9月議会の文教委員会で議論になっていたことも報告された。2月、3月議会では議論はなかった。(3)現在、候補にあがっている土地に関するSNSへの書き込み等を資料として配布した。

市の対応については不明だが、市長も含め人事が動いてい

る。会長としては、市にも働きかけたいとのことであったがしばらく静観することとなった。同窓会総会でまた、話題(議題)にあがると思います。その後、委員からの質疑応答で今まで候補にあがっていた場所?茅ケ崎ゴルフ場は?などの質疑があった。

最後に北陵同窓会HPや Facebookの運営などを含めた今後についての意見

交換が行われ、午後3時10分に会長が 閉会を宣言した。 以上

文化祭※1 以前のFacebookで報告していますが、同窓生の方に『語り場』という機会を設け、生徒や卒業生、ご父母へお話をお願いしました。元年度も実施して欲しいとの学校側からの要請もあったので、今年も同様にと考えています。文化祭へ同窓会として参加予定ですが、その内容については委員の方や会員の皆さんからのご意見をいただければと考えています。

『同窓会総会』開催(※2) 11月初旬、会場は茅ヶ崎駅近辺、住所の判明している全卒業生(同窓生)への案内(名簿業者を利用)をする。①会場手配②実施企画③名簿業者手配の検討は役員を中心に行っていく。→アイディア、ご意見を募集しています。SNS等でご連絡ください。

教育【青春スクロール】   朝日新聞 神奈川版より

県立茅ケ崎北陵(5)

写真・図版

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茅ケ崎で執筆する鳴神

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2作目を編集中だという三澤

■「遅咲き」も「早咲き」も、3年間が支え

 小説家の鳴神響一(56、1981年卒)は中央大学を卒業後の28年間、茅ケ崎市内の小学校事務職員を務め、52歳で作家デビューした遅咲きだ。

 鎌倉で育ち、中学時代はラジオの深夜番組にはまった。担任の薦めで茅ケ崎北陵高校に入学。鎌倉から通う知り合いは少なく心細かったが、夕方、下校を促す音楽に救われた。

 校内になぜかイギリスのロックバンド、レッド・ツェッペリンの「天国への階段」が流れた。選曲は放送委員会の先輩。「自由だ」。自分の居場所はここだと思った。

 放送委員会に入ると、顧問はノータッチ。昼の休み時間は毎日、DJ入りの音楽番組を作って流した。月曜の「ジャズ・フュージョン」を担当し、音楽へのこだわりと知識を生かせた。

 NHKのコンクールに出品するラジオドラマのシナリオも書いた。柳田国男の「遠野物語」を題材に、伝説と音楽を融合させた作品も手がけた。

 クラスから希望者が入る委員会組織だったが、中身は完全に部活。構想を練り仲間と議論を交わした。OB会も熱心で、毎年の寄付で相当な機材がそろっていた。

 自宅から電車を乗り継いで通った。低い山が迫る鎌倉と違い相模湾に開けた茅ケ崎の伸びやかな雰囲気が心地よかった。

 大学4年の就職活動でテレビ局を受けたが合格せず、翌年、県の小中学校などの事務職員の試験を受けて採用された。茅ケ崎市内の小学校で教員や児童の各種手続きなどをこなし、公務員として地道に過ごした。転機は、首に腫瘍(しゅよう)が見つかり、死を意識した40歳の時だ。

 「本気で何かしてきただろうか」「高校時代から物語を作りたかったのではないか」

 腫瘍は良性だった。復職後、小説を書き始めた。何度も新人賞に応募したが落選続きだった。51歳の時、仕事を辞める決意をした。退職金を取り崩してでも本気で小説家になろうと。するとその年、「私が愛したサムライの娘」で角川春樹小説賞を受賞。以来、ミステリーや歴史・時代小説を発表している。

 対照的に映画監督の三澤拓哉(31、2006年卒)は、27歳で映画監督デビューでした。

 高校ではサッカー部。部員は100人近く、新入部員はボール拾いやライン引きなどばかり。何かミスがあると連帯責任で105メートル連続走などの罰則があり、1年生の6月に早々に退部した。だがサッカーが好きで悶々(もんもん)としていたころ、仲のいい同級生が「戻ってくればいいじゃん」と声をかけてくれた。

 11月に復帰し、3年までサッカーを続けられたことは自分の支えになっていると思う。

 明治大学文学部に進み演劇を専攻した。とはいえ舞台や映画志望ではなく教員になるつもりだった。4年生の夏、東京・お茶の水で毎年あるジャズ祭の学生スタッフになり、ジャズ祭総合プロデューサーの歌手・作曲家で俳優の宇崎竜童に出会った。映画の話をし将来について相談にも乗ってくれた。「映画の世界でやってみたい」と思うようになり、卒業後、日本映画大学の1期生に。脚本も手がけた映画「3泊4日、5時の鐘」を在学中に茅ケ崎で撮影した。

 開放的な前作とは異質な、晩秋の大磯町を舞台にした2作目を制作中で、近く公開する。

(遠藤雄二)