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2019年5月21日アーカイブ

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(7)

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写真:指導に情熱を注ぐ藤田拡大指導に情熱を注ぐ藤田

写真:茅ケ崎市職員になった富田拡大茅ケ崎市職員になった富田

■厳しい練習・失意の大会、後に開花

 女子フットサルの元日本代表主将の藤田安澄(あずみ)(40、1997年卒)は高校時代、バスケットボール部の主力だった。地区大会で上位に入って県大会に出るという目標があり、練習は厳しかった。

 ただ部活の指導方法には疑問を感じた。チームを鼓舞するためか、頻繁に叱られたり、きつい反復練習をやらされたりした。生徒が目的意識を持ち、自分たちのアイデアでやれたら、もっと良いプレーや試合ができたと思う。

 当時のチームメートはいまも仲がよく、たまに茅ケ崎市内の体育館に集まり、ゲームを楽しんでいる。

 筑波大学に進み、バスケを続けてレギュラーを目指した。思うような結果が出ず女子サッカー部に転向。主力としてインカレ(全国大会)に出場した。フットサルに出会ったのは通信制高校で保健体育を教えていた時。1チーム5人で、全員で攻めて守る競技はバスケと似たところがあり、自分に合っていた。都内のクラブチームで活躍し、2007~10年に日本代表に選ばれ3大会で主将を務めた。

 引退後はブラインドサッカー女子日本代表のコーチを務めるほか、湘南地域で子どもから大人まで指導するフットサルクラブの代表となった。「何がいけないか理由を明確に伝え、納得して練習やプレーをしてもらうように心がけています」

 1993年の箱根駅伝で優勝した早稲田大学のアンカー、富田雄也(かつや)(48、1989年卒)は高校時代は陸上部員。3年の時、県大会の3千メートル障害で2位になり、インターハイ出場を目指して関東大会に臨んだ。

 しかし大会直前、体育の授業中に足首をねんざし、治りきらずに惨敗。失意の中、高校での競技を終えた。国立大学志望だったが、共通1次試験の結果が思わしくなく浪人を覚悟した。

 担任の言葉が、人生を変えた。「どこでもいいから、一つ合格してから浪人しろ」

 少しでも自信を持って翌年、第1志望校に挑め、という担任の意図だった。富田は「ダメもと」で受験した早稲田大学に合格。本格的な競技は高校までと決めていたが、父親に「陸上部(競走部)に入らないと学費は出さん」と言われた。「それなら、もう少しやってみるか」といった程度の気持ちで競走部に入部した。

 厳しい練習を続け、1年生から良い成績を出せた。正選手のけがや体調不良もあり、箱根駅伝のアンカーに抜擢(ばってき)された。チームは9位。翌年もアンカーを務めた。

 安定した走りが特徴で、4年時も最終10区を任された。スーパールーキーといわれた渡辺康幸らが入ったこともあり、チームは久々に箱根駅伝総合優勝を果たした。ゴール数キロ前に優勝を確信すると、摂生を怠ってメンバーから外された前年の悔しさなどを思い起こし、感情がこみ上げた。テープを切った瞬間は、興奮で記憶にないという。

 早稲田のアンカーは卒業後、茅ケ崎市役所に入り、現在は市民自治推進課長をしている。

     ◇

 県立茅ケ崎北陵高校は今回で終了します。(遠藤雄二)

教育【青春スクロール】

県立茅ケ崎北陵(6)

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写真:交通事故から復帰したおおい拡大交通事故から復帰したおおい

写真:幼い頃から空想が好きだった加藤拡大幼い頃から空想が好きだった加藤

■しっかり者の親友・暖かい日だまり

 絵本作家のおおいじゅんこ(50、1987年卒)=本名・大井淳子=は、幼い頃から絵や造形が好きで、茅ケ崎北陵高校入学時から東京芸術大学への進学を目指した。

 高校では美術部で活動した。芸大の入試ではデッサンなどの実技が重視されるため、鎌倉市内の美術系大学受験の専門予備校に通った。3年生になると予備校で学ぶ時間が増え、担任に伝えて単位取得に支障のない範囲で休んだり早退したりした。

 欠席した授業はもちろん、校内の出来事などが気になった。その不安を解消してくれたのが3年間同じクラスの親友だった。ノートを見せてもらったり、クラスの様子を聞いたり。

 「教室に入ると、彼女に会えるという安心感があったから、あんなにのんきに休めたのかもしれません。しっかり者の親友とずっと同じクラスだったのは幸運でした」

 東京芸大大学院を修了後、文房具メーカーのデザイナーに。結婚、出産を経て退社し、絵本を描き始めた。「ちびころおにぎり」「チャーシューママ」など、食べ物を擬人化した作品が多い。

 5年前、自転車に乗っていて車にはねられ、頭を強く打って、くも膜下出血が起きた。後遺症で今も臭いがほとんど分からない。外に出るのが怖くなり、活動再開までに2年以上かかった。昨年、4年ぶりに「プチトマトのぷーちゃん どーこかな?」を出版した。子どもの視線でイメージをいっぱいに膨らませるようにしている。

 「ふと、これが最後の作品になるかもしれないと思うことがある。1作1作を大事に描いていきたい」

 同じく絵本作家の加藤晶子(あきこ)(40、97年卒)は「暖かい日だまりの中にいるような時間だった」と高校時代を表現する。

 緩やかな丘に位置する高校の周囲は当時、畑や牧場だった。辺りを眺めながらゆっくりこぐ自転車の脇を、次々と生徒たちが追い抜いていく。冬の朝、美しい富士山を眺めていたら、遅刻したこともあった。

 小学生の頃から、お話をつくったり、絵を描いたりするのが好きだった。小さくなって植物に乗って空を飛び、街中に種を巻くような話だった。勉強やバドミントンの部活で忙しかった高校時代も、「どうしたら絵本作家になれるのか」と思い続けた。親しい友人に夢を話すと、「晶らしいね」と応援してくれた。

 「高校時代は、ゆっくりと絵本への思いを蓄積することができた」と振り返る。

 創作のためには絵だけでは足りないとの思いから、東洋英和女学院大学に進学し、死生学などを学んだ。4年生の途中から、イラストレーションの専門学校にも通い、絵本づくりへの道を踏み出した。卒業後は企業で働きながら絵本を描き、週末は出版社の編集者らが批評してくれる絵本のワークショップに参加した。2013年、「てがみぼうやのゆくところ」で講談社絵本新人賞を受賞してデビューした。

 作中で、投函(とうかん)された「てがみぼうや」は真っ暗なポストの中で、「はがきさん」に声をかけられ励まされる。母親になった今も「干した洗濯物たちが話し始めるかもしれない」と、しばらく眺める時があるという。

(遠藤雄二)

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