教育【青春スクロール】 朝日新聞神奈川版より
県立茅ケ崎北陵(4)
■吹奏楽部の名物顧問、教え子たちは
トランペット奏者の池田英三子(49、1988年卒)は中学生の時、茅ケ崎北陵高吹奏楽部の定期演奏会を聴きに行って、この吹奏楽部に入ろうと決めた。「サウンドが素敵で、指揮をした先生のもとで演奏したい」と思った。
当時の顧問は竹高敬(故人)。サングラスをかけ、下駄(げた)を履き、教員らしくない風貌(ふうぼう)だった。音楽と酒をこよなく愛する名物教師だった。高校の吹奏楽部や大学のサークルでファゴットなどを吹いていたという。
池田は小学4年から金管バンドでトランペットを始めた。中学も吹奏楽部。地元の進学校で、魅力的な吹奏楽部がある北陵を当然のように選んだ。とはいえ吹奏楽部は、コンクールで全国大会などに進む「強豪校」ではなかった。
「いい音楽をしよう。いいものをつくろう」。それが竹高のモットーだった。高校の周囲は畑が広がっていた。暖かい日は教室の窓を開け、畑に向かって伸び伸びと吹いた。
1年の終わりの定期演奏会で、ソロを含む重要パートを任され、演奏後に竹高に褒められた。そのころから「楽器で生きていこう」と、奏者になる決意を固めていった。東京芸大に進み大学院修了後、オーケストラやミュージカル、ソロなどの演奏活動のほか、大学や音楽学校で後進の指導をしている。
一つ先輩には、国際的なホルン奏者でフランスを拠点に活躍する根本雄伯(たけのり)(87年卒)がいた。竹高から演奏する喜びを伝えられた教え子は、プロでもアマでも楽器の演奏を続けている人が多いと池田は言う。
横浜市の書家中澤光(りこう)(47、90年卒)=本名・伊川和美=も竹高の音楽にひかれ、部活に打ち込んだ。担当はトロンボーン。1年の夏の県大会はいまも忘れられない。
演奏はベストといえる出来栄えだった。指導する竹高のタクトに呼応し、曲の最後を気持ちよく伸ばした。大きな拍手がわき、関東大会出場もみえたかと思われた。ところが、規定の12分をわずかにオーバーし、失格となった。
竹高は「やっちゃった。ごめん」とわびたが、顔は笑っていた。部員たちも満足感でいっぱいだった。「次は(地元での)ジャズコンサートだ」と気持ちを切り替えた。「賞を取るためではなく、素敵ないい演奏をしよう」というのが、顧問と部員たちの共通した思いだったと中澤も振り返る。
「顧問を信頼していました。先輩と後輩の仲もよくて、部活動にどっぷりでした」
千葉大園芸学部に進学。就職先を退職後、勤めた花屋で「メッセージカードを上手に書けるようになりたい」と思ったのがきっかけで、横浜の書家に師事し、30代で書家になった。
1歳上の兄、故中澤系(89年卒)=本名・中澤圭佐(けいすけ)=も同窓で吹奏楽部員だった。20代後半から短歌に没頭し、未来短歌会の97年度「未来賞」を受賞。頭角を現したが、進行性の難病副腎白質ジストロフィー(ALD)で38歳の若さで亡くなった。
分野は違っても曲折をへて芸術の道を歩んだきょうだい。妹は兄の歌が生き続けてほしいという思いを込めて、兄が紡いだ歌集「uta0001.txt」(皓星社)から言葉をしたため続ける。
(遠藤雄二)